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世界の各宗教に敬う想いがいつもあり

 投稿者:333嵩参  投稿日:2007年12月19日(水)05時55分48秒
  特に仏教やヒンドゥー(特にビシュヌ派)が好きで、全ての存在を肯定的に呑みこんでしまい、そこから真理を追求し続ける在り方が素晴しいといつも感じています。宗派にかかわらず、日蓮大上人が法華経を世間全般大衆に知らしめた功績は秤り知れないものがあると思います。自分は聖書をよんだり、教会に行ったり、他宗のお寺に行ったり、神社に行ったりして日蓮宗の信徒ではありませんが、法華経には本当にすぐれた法力がありますね(経験から申し上げます。笑)
全ての仏教徒(以外の人でも)は宗派に関係なく法華経をとなえたら良いのにと実感しております。
 

ブログ

 投稿者:影法師  投稿日:2007年10月21日(日)21時12分58秒
  たまに更新します!ヽ(o ̄▽ ̄o)ノ


宜しかったら読んでください!


http://plaza.rakuten.co.jp/genxxx/
 

お疲れ様

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 8月19日(日)22時15分12秒
  お疲れ様!

あまり頑張り過ぎないように(*^-^*)

来年も、宜しく
 

寺子屋★

 投稿者:pino  投稿日:2007年 7月26日(木)14時35分9秒
  お久しぶりに現れました〜★pinoでーす★
ついこの間、一泊寺子屋のお手伝いをさせていただきました★
子供たちはとてつもなく元気で、とてつもなくパワーをたくさんもらい、そして私のパワーも吸い取られた感じがしますww
一泊寺子屋の中で、「いじめ」について法話がありました。
私は、「いじめ」られたことがあります。けれど、そのいじめは自分にとって必要なものだったようが気がします。その強さにたどり着けたのは、自分自身で、戦って、頭を使って心を使って本当の友達作りができたような気がします。いじめはやっぱり、ない方がいいです。けれど、もまれる事によって子供たちは強くなっていくような気がします。
大人になっていくには、笑顔だけでなく、涙も必要です。自分がいかに行動するか、いじめられた。さあどうする。いじめた。さあどうする。それが一番大事なことなのではないかと思います。ここ最近の、学校では、子供の喧嘩に大人たちが入り込みすぎるような気がするのです。それも成長の一つなのに、道を教えるのではなく、道を作ってあげてしまい、自分から実行するということが少しかけてきているような気がします。
私は去年母を亡くしました。けれど、いろんな事を教えてもらい、考えさせられ、悩ませてくれました。だから自分がここにいます。
一人で生きているわけではない。
本当に毎日痛感します。人は一人では生きていけない。だからこそ、すべてのものに愛情を注いで、感謝して、笑顔でいることがシアワセであり、それは普通の生活と人は呼ぶのかもしれませんが、難しいことだと思います。
子供たちがすくすくとたくさん泣いてたくさん笑って大きくなりますように★
皆がpino先生を覚えてくれていたらうれしいな★
本当に貴重な経験をさせていただきました★とっても楽しくて充実した二日間でした★
 

失敗学

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月15日(金)17時40分6秒
  始めから、成功する人は、いるのだろうか?



成功するには、失敗を繰り返さなければならない




1、確信 自分は成功すると信じ込む
2、改善 失敗の原因を分析して方法を改める
3、忍耐 途中で投げ出さない
4、努力 成功するまで粘り強くとりくむ
5、勇気 失敗を恐れずに何度でも挑戦する


エジソンには、失敗は、無かった!
あくまでも、成功のためのプロセスである!
 

ごう

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月11日(月)10時21分20秒
  どうして行ないが運命を生み出すのでしょうか?
少し専門的な話になりますが、仏教の大事な教えなので、記しておきたいと思います。
行為のことを仏教では「業(ごう)」と言います。
私たちのやった行為は、業力(ごうりき)という目に見えない力となって残り、決してなくなりません。これを「業力不滅(ごうりきふめつ)」と言います。

その不滅の業力はすべて、阿頼耶識(あらやしき)という私たちの本心(本当の生命)に蓄えられるのだと仏教では教えられます。

阿頼耶(あらや)とは、昔のインドの言葉で「蔵」のこと。識は心のことですから、阿頼耶識とは、“蔵のような心”と言えましょう。

この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている無量の業力が蓄えられるのです。

肉体の命は、およそ7、80年ですが、この阿頼耶識は、悠久の過去から永遠の未来へと流れていく不滅の生命です。

肉体が生まれ、五十年や百年の間で死ぬのは、永遠の生命の流れから見れば、とうとうと流れる大河の水面に泡がポツンと生じ、やがてパッと消え去るようなものでしかありません。

           大河の水面の泡のようなもの

                (肉 体)
             死←──────生
 ────────●───────○───────

           ←   [生命の流れ]   ←

             とうとうと流れる大河

(パソコンの方でないと画面上では、図が崩れているかもしれません)

不滅の業力を蓄える阿頼耶識は、肉体が滅びても、滅びることのない永遠の生命である、と仏教では教えられています。その阿頼耶識は“暴流(ぼうる)のごとし”と教えられます。「暴流(ぼうる)」とは、激しい流れのことで、滝のようなものです。滝は、遠くから見ると一枚の布のように見えますが、実際は、激しく流れていて、一時として同じ水ではありません。

“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず”

不滅の阿頼耶識は暴流のごとく、絶えず変化しながら続いていくのです。

行ないには、
・身業(しんごう):体の行ない=体でやる
・口業(くごう):口の行ない=口で話す
・意業(いごう):心の行い=いろいろのことを思う
の三業(さんごう)があります。これを“身口意(しん・く・い)の三業”と言われます。

法律や道徳では、体と口の行ないを問題にしますが、仏法では心が最も重視されます。
        ┏━┓
        ┃心┃
      ┌┗━┛┐
      │     │
      ↓     ↓
     ┌─┐ ┌─┐
     │身│ │口│
     └─┘ └─┘
(これもパソコン上の画面でないと図が崩れるかもしれません)

心で思ったことを、体で行ない、口で言う。心はあらゆる行為のもとだからです。
“殺るよりも 劣らぬものは 思う罪” と言われます。「殺る(やる)」とは、体で殺すことですが、心で殺す罪はもっと恐ろしい、ということです。ですから、心で日々思っていることこそ、私たちの運命を大きく左右していることを知らねばなりません。

心と口と体の三つの行為が、目に見えない業力となって阿頼耶識に蓄えられ、やがて未来の運命を生み出すのです。
 

実行力

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月 8日(金)09時39分29秒
  道を歩いていると、風で倒れた自転車が通行の邪魔になっている。
通勤のサラリーマンたちは、それを横目に、いかにも通りにくそうに通り過ぎて行く。
誰か一人、その自転車を立ててしまえば、ぐっと通りやすくなるのに、おそらく何十人と、朝から往来があったにもかかわらず放置されている自転車が何ともいたたまれない、という気持ちになったことがしばしばあった。

こんな話があるので紹介したい。

・・・・・

ドイツのある王様が、誰も見ていない夜中に、市街の真ん中へ、そっと大きな石を置いて帰城した。

翌朝、酔っぱらいの軍人が、その石につまずいて、倒れて頭を打った。
「だれだい、こんな往来に石を置いたやつは。ばかやろう、気をつけろ」
さんざん、悪口を言って立ち去る。

しばらくして、馬でかけてきた紳士が、間一髪で大石につきあたろうとして、立ち止まった。
「ああ危ない。もう少しのところで、この石にぶつかって死ぬところであった。いたずらするにもほどがある」
ブツブツ小言をいって去ってゆく。

またしばらくすると、一人の農夫が、荷車を引いて通りかかった。
「なんだい、こんな大きな石を置いて。危なくて通れやしないじゃないか」
不平たらたら、石をけって通り過ぎた。

かくして、だれ一人、この石を取り除く者はいなかった。

一ヵ月後、王様は、市民をその広場に集めて訓示した。
「実はこの石は、私が置いたのである。しかし今日まで、だれ一人として公益のために取り除こうとする者はいなかった。これは私の治政の欠陥だろう。今日この石を、私が取り除こう」
王様みずから、石を動かした。
するとその下に『この石を片づけた者に与える』と記した袋があった。
宝石と金貨二十枚が、その中に入っていたという。

あれを見よ みやまの桜 咲きにけり 真心(まごころ)つくせ 人しらずとも

・・・・・

自分も、幾度となく、不愉快な気持ちになりながら、それでも「誰かがやるだろう」と言い訳をして、何もしてこなかった。
自分の都合を優先させ、口先ばかりで行動の伴わない日ごろの言動を反省し、向上につなげたいと思う。
 

ナワをうらむ泥棒

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月 8日(金)09時36分10秒
  「確かに、理屈はそうかもしれないけど、他人のせいで、自分が苦しむことって、あると思うけど…」
そう思う人も多いと思います。もっともな疑問です。

世の中には、一見すると自因自果と思えないことがたくさんあります。

「自分がこんなに苦しんでいるのは、あの人のせいだ」
「あいつが、あの時、あんなことを言ったから、オレはこんな目にあったんだ。悪いのはあいつだ」

自分があまりに不幸で、惨めな目にあうと、とても自因自果とは思えず、他因自果のようにしか思えないことがあります。

しかし、仏教では、どんなことも例外なく、自因自果だと教えられています。

それを他因自果のように思うのは、「ナワをうらむ泥棒」と一緒だよ、と言われるのですが、それはどういうことなのでしょう?

御用となった泥棒がナワで縛られ苦しんでいる。泥棒は“オレを苦しめているのは、このナワだ!”と考え、ナワを恨んでいる。そんな泥棒を見たら、誰もが愚かだと思うでしょう。泥棒を苦しめているのは、ナワではなく、泥棒自身の犯した“盗み”という行為に他ならないからです。ところが、目先のことしか分からない泥棒は、自分を苦しめているのはナワだと思い、過去に犯した悪の行為の結果とは、夢にも気づかないのです。

世の中に、ナワがどれだけあっても、縛られて苦しんでいるのは、その泥棒だけです。
そのような結果を招いたのは、間違いなく、泥棒自身の行為なのですから、恨まねばならないのは、自身の行為であって、ナワを恨んでいるのは、お門違いだというのは、誰でもわかると思います。

しかし、この泥棒を笑える人はどれだけあるでしょう?

「自分がこんなに苦しんでいるのは、あの人のせいだ」
「あいつが、あの時、あんなことを言ったから、オレはこんな目にあったんだ。悪いのはあいつだ」
と、他人をのろい、相手を憎む心はないでしょうか?
とんでもないものを恨んだり、腹を立てたりしていては、幸せはやってきません。

現在受けている一切の運命は、自分がかつて創造したものであり、未来の運命は、これから自分が創造していくものなのです。
 

私は私を好きでいますか?

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月 7日(木)12時01分7秒
  日常に流され…

自分を見失って無い?
忙しさにかまけて…
笑顔忘れて無い?
強がりすぎて…
頑張りすぎて無い?
現在過去未来…
私は私を好きでいますか?
 

徳川家康

 投稿者:影法師  投稿日:2007年 6月 6日(水)11時02分43秒
  徳川家康があるとき、本多忠勝、大久保忠勝らの剛の者らを集めて種々、手柄話などさせた後で、食べ物のことで試問した。
「この世で一番おいしいものは何か、各自の思いを述べてみよ」
ある者は「酒」といい、ある者は「菓子こそ」という。ある者は「果物だ」と、好みにおうじて嗜好物を挙げて言い争った。いずれも家康は不満そうである。
やがて家康は、平素から評価していた局(つぼね)の、お梶の方をさして、
「そなたは、なにが一番、おいしいと思うかな」
とたずねた。にっこり笑った、お梶の方は、
「一番おいしいものは塩でございます」
と、きっぱり答える。
なるほどと、初めて満足そうにうなずいた家康は、重ねてたずねた。
「それでは、一番まずいものはなにか」
「一番まずいものは塩でございます」
お梶は、無造作に答えた。
「さすが、お梶である」
家康は、彼女の聡明さに感心したという。
塩は味の素(もと)であり、あらゆる味を活かすものだから、一番おいしいものに間違いない。
また、すべての味を殺すのも塩であるから、一番まずいものでもある。
さらに直言すれば、本来塩は、おいしいものでも、まずいものでもなく、サジ加減一つで変化する。
塩は味の材料にすぎないので、これをこなすサジ加減こそ味の素であることを道破したところに、お梶の答弁が妙答として、万人をうなずかせるのである。
健康も財宝も名誉も地位も、幸福の材料にすぎず、これらを自在にこなしきることこそ、人生の要諦であろう。
・・・・・・・・・・
「何が幸せだろう?」
身の周りには自分を幸せにしてくれそうなモノがあふれているのに、心はいつもムナシサを抱えている。
むしろ、生活を楽しくしてくれるモノが増えてきたことで、余計にムナシサを感じるようになったのかも知れない。
現代人の心を“ムナシサ”が覆っている、と感じる。
日本のマンガ、アニメ、ゲームは世界を魅了している。
家電製品の行き届いた機能は、私の経験する限り、他の国では見たことがない。
とにかく、日本ほど個人のニーズに応えようと、がんばっている国はないのではないか?と思う。
それほど、心を満たしてくれるはずのモノが周りに溢れているにもかかわらず、この“ムナシサ”は何だろうか?
1945年の敗戦後、不幸のどん底と言える状態から、幸せで豊かな社会を築こうと努力してきたはずだが、努力の結果、果たして私たちは“幸福”を手に入れたと言えるだろうか?
物質的な豊かさ、安全、衛生、多くのものを手に入れた日本社会。
しかし、一人一人の心に、
「人間に生まれて良かった!!」
「生きるって素晴らしい!!」
と言える喜び、満足がなければ、日々の努力は“ムナシサ”を募らせるだけになりはしないか、と懸念する。
「生活が、もっとこうなれば幸せになれる」
「こういうものが手に入れば幸せだ」
こう考えている限り、“ムナシサ”のアリ地獄から抜け出せないだろう。
幸福と、幸福の材料の違いが、この話で知らされる。
自分は、何を求めて生きているのだろう?ということを、深く考えさせられた話。
 

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